こんにちは😀
今年11月に「子ども虐待防止策イベントin 東京 2022」を開催するボランティアチーム「パワチル東京」のれいこです。
20年くらい昔の話です。
ある日、ソファに寝転んでTVを見ていた父がいきなり起き上がり、こう言いました。
「しわくちゃの年寄ならいざ知らず、幼気(いたいけ)なわが子を虐待するなんて、気が知れないな。」
その場には、母と弟と私がいましたが、3人そろって目を見開き、口をOの字に開けてお互いの顔を見合わせてしまいました。(滑稽な図を想像してみてくださいね。)
父は、母にとっては心理的DV夫、私たち兄弟にとっては虐待する親でした。
その自覚が全くないことを知って、私たちは呆気にとられてしまったのでした。
虐待事件が報道されるたびに聞く言葉。
「どうしてあんな酷いことができたんだろう。」
「人としてやってはいけないことくらいわかっているのに、なんでしてしまったのか。」
「そこまでエスカレートしてしまったのは、何故なんだろう。」
これらの言葉の背後には、「虐待の原因がわかれば、問題は解決するが、虐待する人の気持ちは、常人にはわからないから解決できない。」という間違った思い込みがあるように思えます。
私は、虐待の原因を加害者個人の資質に求めても、何一つ解決しないと思います。
むしろ、虐待を生み出しているものは、社会的なシステムだと、私は考えています。
確かに人間は、怒り・憎しみ・不安などの様々な感情から、他者を殴ったり、暴言を吐いたりすることがあります。
しかし、そういった感情の奥底にあるものをもう少し掘り下げてみると、「支配—被支配の構造」が見えてきます。。
夫婦関係や親子関係のゆがみの中に、支配—被支配の構造があるのです。
(別に偉い先生が言ったわけではないので、「れいこ仮説」とでも名付けておきます。)
(偉い先生が言ってくれているかもしれませんが、不勉強なのでわかりません。)
夫の妻に対する支配欲求、親の子に対する支配欲求は、妻や子が完全に従順になるまで、手を変え、品を変え、妻や子を攻撃します。
しかし、夫や親にとって、妻や子が完全に従順になることはないのです。
子どもを自分の思い通りに管理し支配したいという親の思いは至る所に見ることができます。
結愛ちゃんの父親も、心愛ちゃんの父親も「自分の思い通りに娘を育てたかった。」だけなのです。
私の父も、「自分の思い通りの娘にしたかった」ようです。
家庭教育にしても学校教育にしても、教育と虐待は紙一重だと、私は思います。
これは、今一生さんの受け売りですが、「子どもには、なりたい自分になる権利がある」という言葉を肝に銘じておきたいものですね。
こんなことを考えながら、「子ども虐待防止策イベント」の準備をしています。
興味を持ってくださった方、共感してくださる方、ぜひ、一緒に小さなアクションを起こしましょう。
下のメールアドレスに「スタッフ希望」と書いてご連絡ください。
↓開催費への寄付もよろしくお願いします。